ダウンタウンのネタについて


ダウンタウンの漫才は発想での勝負が大きいのだが、
それだけでなく、技術的にもとてもうまかった。
新人時代、わざと袖の長いスーツを着て、ダラけているように見せ、
松本さんは一切笑顔を見せることなく引きの芸に徹し、ダラけてしゃべり、
そして、ゆっくりなテンポで、スカスカの間を作る。
浜田さんは、もう、それこそ、チンピラのように激しく怒鳴ってツッコむ。
ただスカスカでダラけているようなスタイルは、
漫才ブームの頃のスピード感のあるしゃべりが主流だった
当時は受け入れられにくかった。しかし、莫大な時間がかかりはしたが、
ダウンタウンは自分達の漫才に人々の目を向ける事に成功した。


ダウンタウンの漫才は、すでに素人時代から完成していた。
NSC開校当時は、講師に先輩芸人が参加して授業を行っていたらしい。
当時は、明石家さんまさん、島田紳助さん、オール巨人さんといった
メンバーもそれぞれ講師として授業を担当していた。
そして、さんまさんや紳助さん達が、たまたま集まった時に、
NSCの話になり、その時3人が口をそろえて言った。
2人だけすごいヤツおるな」。3人の意見は一致していた。
「松本いうヤツと浜田いうヤツ」。ゆえにその頃から2人の漫才は完成していた。
そして、同期のトミーズの雅さんやハイヒールモモコさんなども
「もうめっちゃおもろかった。本気で笑てたもん」とコメントをしている。


有名な話だが、デビューして間もない新人ダウンタウンの漫才を
梅田花月の舞台袖で見ていた島田紳助さんは 「こいつらには勝てない。」と思い、
2人の舞台を見終わったその足で、すぐ吉本の社長のところへ出向き
「明日、紳助竜介解散しますわぁ。」と告げたらしい。
そして翌日、本当に紳助・竜介の解散記者会見を開くのである。
さらに、野沢直子さんも、こんなすごいのがいる世界では勝てないと思い、
芸能界を引退したというエピソードもある。


売れる芸人さんは自分達の事をよく分かっていなければならない。
ダウンタウンはデビューする時、
「僕らはすごく売れるけど、僕らの時代が来るのは五年後やから、
今は給料制にして五年後に歩合制にしてください」。と会社に言っていたようだ。
ここまで自分達を見抜いてないと、お笑いで天下は取れないようだ。


そしてダウンタウンの漫才受賞歴だが、
NSC在学中に、今宮戎こどもえびす新人漫才コンクール大賞
デビュー1年目で、ABC漫才落語新人コンクール最優秀新人賞
昭和59年、第14回NHK漫才コンテスト優秀賞
昭和61年、第21回上方漫才大賞新人奨励賞
昭和62年、日本放送演芸大賞発表最優秀ホープ賞
昭和62年、第22回上方漫才大賞奨励賞
昭和63年、第23回上方漫才大賞奨励賞(2年連続)
平成元年、第24回上方漫才大賞大賞
ひとつのコンビが、ここまで賞を総ナメする事は、今ではもう全く見られなくなった。
賞を受賞した他の芸人は、ガッツポーズで喜びを表したり、
時には涙ながらに喜びを表す中、当時のダウンタウンは、
受賞しても喜ぶといった姿はなかった。「」であった。
そういったやる気の無い芸風がダウンタウンだった。
当時、それをよく紳助さんにツッコまれていた。「お前ら、もっと喜べよ!」と。
ただし、「お笑いスター誕生(NTV)」では3週目で落ちたらしいけどね。


ダウンタウンの頭脳、いわゆるネタを書いているのは松本さんである。
若手時代から、台本(ネタ帳)を書くという事はほとんどなかったらしい。
ネタの流れを口頭で浜田さんに説明し、それだけで舞台に立っていくのだ。
これは漫才だけではなく、番組などでのコントを作るときも変わらず、
台本を書くという事はなく、コントの流れだけを出演者に説明する。
あとは、ぶっつけである。それによって、当初決めていた内容とガラリと
変わる事があるらしい。「ガキの使いやあらへんで!」の
フリートークでもそうだが、やはり、ぶっつけである。
それはコントでも同じく、コント上での設定は守りながらも、
フリートークと同様に、浜田さんがネタフリをする。そして松本さんがボケる。
そして、その場その空気で一番おもしろいコントが完成する。



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●2000年04月01日初回更新日
●----年--月--日追記・修正更新日